おはよう日本 活動紹介

2015年8月16日(日)

戦没者慰霊碑・託された思い“継承の危機”

上條
「戦後70年、記憶を伝える大切な存在が今、失われようとしています。」

生い茂った木々に覆われた、戦没者の慰霊碑。
今では慰霊する人の姿は見られません。
全国に建てられたおよそ半分近く、6,000もの慰霊碑が、管理者が分からなくなったり手入れが行き届かなくなったりする状態になっています。

「悲しいね、こんな姿を見ると。」

慰霊碑に刻まれた“戦争の記憶”。
私たちはどう受け継いでいけばいいのでしょうか。

近田
「きのう(15日)は終戦の日。
全国戦没者追悼式が開かれました。
遺族の高齢化はいっそう進み、参列したおよそ8割が70歳以上になりました。」

上條
「こうした中で、新たな課題も浮き彫りになっています。
遺族や戦友、それに地域の人などが建てた民間の慰霊碑は全国におよそ1万3,000。
このうち、管理者が分からなかったり手入れが行き届かなかったりするものが実に6,000以上。
中には崩れ落ちてしまっているものもあることが、厚生労働省の調査で明らかになりました。」

近田
「戦後70年の今、慰霊碑に託された思いが受け継がれなくなるのではないかという厳しい現実に直面しています。」

慰霊碑に託された思い “継承の危機”

鳥取県の中部、北栄町にある小学校の跡地です。
地区から出征した戦没者を弔う慰霊碑が建っています。

その横には200人以上の名前が刻まれたプレートがあります。
しかし今、管理する人が誰なのか分からなくなっています。
台座にはヒビが入り、倒れるおそれもあります。
今は、隣の地区の住民が清掃して何とか管理しています。

「困っている。
こういうことではいけないと思う。」

鳥取県内にある89の慰霊碑のうち1割が、管理者が分からないか、補修が必要な状態になっています。

各地で慰霊碑の管理が次第に行き届かなくなる中、大きな危機感を抱く遺族もいます。
米子市に住む月岡綾子(つきおか・あやこ)さん、90歳です。

戦艦大和の乗組員だった夫の悟さんは、結婚の1年後に出征。
当時、月岡さんはお腹に子どもがいました。
子どもの顔を見ることなく亡くなった悟さん。
遺骨すら戻りませんでした。

この地区の戦没者を弔うために、地元の有志が建てた慰霊碑です。
そこには夫の悟さんの名前も刻まれています。
月岡さんは慰霊碑に毎年のように通い、子どもの成長を報告しながら平和を願ってきました。

月岡綾子さん(90)
「そういう所(慰霊碑)にいくと、また再会するような気持ちがする。
(夫に)会えるような気も。」

月岡さんは、慰霊碑を後世に受け継いでいこうと、地区の遺族会の一員として清掃を続けてきました。
しかし、90歳を超えた今…。

月岡綾子さん(90)
「屋根が見える。」

足が弱くなり、2キロ離れた慰霊碑に行くことが難しくなりました。
地区の遺族会の仲間も少なくなる中、慰霊碑に込められた思いが途絶えてしまうのではないかと危惧しています。

月岡綾子さん(90)
「心配だ、本当に心細い。
“これは守ってあげないといけない”、そういう精神の人がいないといけない。」

遺族が高齢化する中、慰霊碑をどのように守っていくのか。
米子市の遺族会は、孫やひ孫の世代で「青年部」を作り、活動を引き継ぎたいと考えています。

しかし、遺族会に参加する800世帯に行った聞き取り調査では、およそ7割の世帯が「活動を引き継げる孫やひ孫が身の回りにいない」と回答。
中には「遺族会に入る意味を感じない」「顔も知らない戦没者を慰霊しなくてもいい」という声もあったということです。

米子市遺族会 山脇基一会長
「“もう遺族会はいいのでは”という子どももいるかもしれない。
難しい状況ではあるけど、遺族会は本当に辛抱しながら、このこと(戦争)をみなさんに伝えながら、風化させてはならないと考えている。」

慰霊碑に託された思い 受け継ぐために

沖縄県では、慰霊碑を守ろうと模索が始まっています。
20万人を越える犠牲者を出した沖縄には、慰霊碑が440あるとされています。
県の調査では、このうち39がすでに管理が困難、または困難になると懸念されています。

こうした中、ボランティアで慰霊碑を守る動きが出てきています。
仲田英安(なかだ・ひでやす)さん、40歳です。
7年前から管理に携わるようになった「沖縄師範健児の塔」です。
師範学校から学徒として動員され亡くなった人など、およそ300人を悼もうと建てられました。
慰霊碑には亡くなったおじの名前も刻まれています。
9年前、仲田さんは遺族会が解散したことを知り、慰霊碑を守っていくことを決心しました。

仲田英安さん(40)
「みんなで“なぜああいったことになったのか”というふり返りの場を持てる公共物だと思うので、どんな思いで人々が戦中、戦後を生き抜いて来たか知るきっかけにもなる。
そこから平和を考えてほしい。」

仲田さんは月に1度は慰霊碑を訪れ、補修などを行っています。
最もこだわったのが、一旦途絶えた慰霊祭の復活です。

仲田英安さん(40)
「参加できそうですかね。」

親戚や知り合いに声をかけ、運営スタッフを集めました。

慰霊祭は6年前に復活。
テントの費用やスタッフへの謝礼など、120万円の経費は全て自分でまかないました。

ことし(2015年)も開かれた慰霊祭。
仲田さんには毎回大切にしていることがあります。
子どもたちを招くことです。

「焼夷(しょうい)弾を落として、ここで働いていた沖縄の10代の若い女性たちは 焼き払われたわけです。
ですから、本当に戦争というのは絶対やっていけない。」

仲田さんは、慰霊碑を守り抜くことで、若い世代が平和への誓いを受け継いでくれると信じています。

仲田英安さん(40)
「いろんな息吹が出てくれば、その息吹を感じ取った若者が、違った形で慰霊をした方が良いとか、また新しいアイデアが出てくれるかもしれない。
“続ける”ということ。」

さらに、別の形で慰霊碑を守ろうという動きもあります。
維持できなくなった慰霊碑を、管理しやすい所に移すという方法です。
沖縄県平和祈念財団は、管理者が管理ができなくなった場合などに、財団の判断で慰霊碑を移設できるようにするという苦肉の策を取ることにしたのです。

沖縄県平和祈念財団 新垣雄久会長
「まさに名も無き慰霊碑がある、現に、ただ残っているというのが。
集ってもらって一つの所でやれば、掃除もしやすい。
いろいろな方法があると思う。」

近田
「沖縄県は、おととし(2013年)から自治体や遺族と協議会を開き、対策に乗り出しています。
また、国も今後3年間かけて、民間の慰霊碑を詳しく現地調査し、対策を検討することにしています。」

上條
「戦後70年、戦争を体験した方々の声に耳を傾ける機会が多くありました。
慰霊碑に込められたメッセージを、私たち若い世代も受け止めていかなければいけないと、改めて強く感じます。」

この記事を書いた人

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